遠く千年の昔寛和の頃、三河の国守大江定基公は東三河のこの地に赴任されましたが、在任中最愛の妻を失い世の無情を感し、東の岡に庵を営みこれを六光寺と名づけられました。その頃、深い森林に包まれていたこの地に、夜毎天空を貫く六道の光明が現れたので、この名がつけられたと伝えられています。定基公は都にお帰りになるにあたって、愛染明王像一躯をお残しになりました。都では恵心僧都源信に師事され法名を寂照と号し、ついで修行のため宋の国に渡り姑蘇の呉門寺に住され、帰国することなくついに彼の地に没せられました。その後当院は天台寺院として受け嗣がれたと伝えられますが、当時の蹤跡としては、東の岡の松籟の中にわずかに三基の五輪塔が残存して昔を物語っております。
〜最明寺として〜鎌倉時代に入り執権最明寺入道時頼公が諸国巡業の折、この地の風光明媚を愛でて暫く留錫されましたが、去るにあたって護身の不動明王像一躯を残されました。よって一堂を西の岡に建立して奉祀し、六光寺は最明寺と改称され禅宗寺院になったと申します。中世末は戦乱の時代で本寺院もまた衰退の途をたどりました。延徳元年(1489)駿河の刺史水野氏がこの地を領した時、寺の衰微を歎き、尾張国知多郡緒川村乾坤院より太素省淳和尚を招請して始祖とて、曹洞宗寺院を開山いたすことになりました。以来歴代住職は、荒んだ世相の中で人身の化育に努め、近郷或いは僻遠の地に20箇寺の末寺を開いて不況に当たってこられました。現在、墓域の一郭に定基公・時頼公・水野公の墓碑が三開基として祀られています。
〜西明寺〜永禄5年(1562)徳川家康公全国平定の業なかば鷺坂合戦の折、四世快翁龍喜和尚が粥を炊いて軍兵に供しましたところ、公はこれを徳とし寺に役宿され、安阿弥作と伝えられる本尊阿弥陀如来を拝されましたが、これが慶長8年(1063)伏見城において六世伝芝全授和尚が朱印状を賜る機縁となりました。この時、弥陀の浄土にちなみ最明を西明に改められたと申します。以来三百年、歴住は国家安穏・民生富楽の祈願を厳修するとともに、檀家の教化・衆僧の研鑚・後嗣の育成などに心を砕き、禅宗道場としての伽藍の維持修造にも力をつくしてまいりました。寛文9年(1669)、本堂・山門等が焼失する災禍に遇いましたが、同11年には10世陌州牛薫和尚代に岡崎城主水野監物忠善公・同忠春公父子の援助、および檀徒の奉仕により再建成り、その後も大庫裡・衆寮・禅堂・鐘楼等の修造が行われて、今日見るような七堂伽藍が出来上がりました。享保6年(1721)には11世月峰薫補、12世香水薫悟両和尚の日本全国津々浦々までの勧進によって、大蔵経を備えることができました。寛保3年(1743)には当地方最古と称される芭蕉句碑
現代になっては昭和5年(1930)日本医学の恩人ベルツ博士の供養塔が、花夫人によって本堂前庭に建立されました。これは博士が生前厚く仏法を信仰され、また当寺が花夫人の先祖の菩提寺であったことによるものでありました。傍らに水原秋桜子の句碑
古来当寺院の四周は山川草木の美に恵まれ眺望もまた絶景、いつの頃からか人々により西明禅寺の六境として詩歌にも歌われてきました。緑滴る三高峰・姫街道よりの参道万松関・定基公遺跡六光跡・愛染明王堂のあった愛染池・不動堂の設けられた不動坂および古戦場鷺坂が数えられ、文人墨客の来遊が頻りであったといわれます。これらの風景は時の流れとともに移り変り昔のおもかげを留めぬものもありますが、たゞに風光を賞するのみならず、これに接して清浄心をおこし萬象と円融自在の境に遊ばれますようお祈り申す次第であります。